LOGIN挨拶を終えた後、俺は七岸さんを地下にある使用人部屋へと案内した。
市川家には大小十五の部屋があるが、そのうち三つが地下にある。三帖一間の小さな和室で、ここを藤高以外の使用人が使っている。 「取り敢えず七岸さんはこの部屋を使ってくれ」 俺はドアを開け、七岸さんを中へと招いた。 七岸さんはトランクを置くと、驚いたようにキョロキョロと見回す。 「個室なんですね」 「ああ、うちの使用人には一応全員個室を与えている。まあ三帖しかないけど、そこは我慢して欲しい。君、学校とかは……」 「女学校は辞めました。言わなくてもわかるでしょう? それでも一高生ですか?」 (だからなんでトゲのある言い方しか出来ないのよ、私……) そうか、そうだよな。奉公しながら学校なんて出来るわけがない。 俺はなんてデリカシーのない質問をしてしまったのか! 後で血が出るまで壁に頭突きして反省しようと誓った。 だけど今するわけにもいかないから、俺は苦笑しながら説明を再開する。 「仕事については朝五時から開始だ。掃除、ゴミ出し、それと朝食の準備。その後使用人の食事。それが終わって一息ついたら屋敷の掃除をして貰う。食事は三回ちゃんと出すから安心して欲しい」 七岸さんは胸に手を当てながらほっと息をつく。 「当たり前じゃないですか。江戸時代じゃないんだから一日二食とか奴隷ですよ奴隷」 (ご飯は食べられるのね、よかった) 世の中飯をろくに与えないクソな家があると聞くからな。当家はそんなことしない。 それにしてもこの子、心の声に準拠して行動するのか。やっぱりいい子なんだな。 俺はぽりぽりと頬を掻きながら続ける。 「食費、薪炭燈火費を削って、賃金は一日三十三銭支払います。つまり月給十円です」 「たったそれだけですか? こんなデカイ屋敷に住んでるのに」 七岸さんは露骨に不満そうな顔をした。 まあ確かに三十三銭というとビール一瓶買ってコーヒー一杯飲んたら終わりだからな。高くはない。しかも使用人というのは藪入り……つまり盆と正月以外休みがないので不満が出るのはわかる。休みのある電話交換手の月給が三十五円くらいだし。 その上地方ならまだしも東京は物価が高いのだ。家に仕送りしたら手元にはほとんど残らないだろう。 だけど、と俺は前置きをして、 「その代わり食事はいいものをあげるから。白米にお味噌汁とお漬物。あとお豆腐は夕飯に必ずつけます。米は亀ノ尾の一級品だから美味いよ。おかわりも自由だ」 と言うと、途端に七岸さんの顔が明るくなった。 (え? 白米! 奉公人だから粗末な麦飯を覚悟してたのに!) ああ、やはり不満はそこから来ていたか。当然だろうな。麦飯食わされて三十三銭ではとてもやる気など起こらないだろう。 無論、それだけではない。 「魚も月に一度振る舞います。お茶は貰い物が沢山あるから自由に飲んでくれて構わない。うちは洋食が好きだから肉も定期的に出すよ。あと使用人にはそばっ食いも多いから、たまにはそばも出るよ。脚気対策にもなるし」 (お肉! 凄い凄い! 全く期待してなかったのに!) そばより肉に反応するあたり若いなあ。 でもこれで安い賃金にも納得して貰えたことだろう。これだけ美味いものを腹一杯食わせたら、そりゃ賃金は安くなるというものだ。 「七岸さんが喜んでくれて俺も嬉しいよ」 「は? 私がいつ喜びました? 頭オカしいんじゃないですか?」 いやいや、すっごい顔がほころんでいるし。 というか、流石にそろそろ訪ねようか。 「いや……えーと、ところでさ、その口を出さずに本音を言う、それ何?」 「なんのことでしょう?」 「……自覚、ないのか? いや、そんな馬鹿な……」 一体どういうことだろうか。俺は首をひねった。 すると七岸さんは上目使いに俺を見つめながら、三つ編みをいじりだす。 「お仕事の方を教えてください」 「あ、ああ。夕方に俺は帰るし、夜になれば父もお帰りになる。そしたら夕飯の支度だ。夕飯が終わったら君たちも休んで貰って構わない。使用人用の風呂場は裏にある。風呂掃除は交代制で、入浴は年功序列だから七岸さんは最後になるけど、そこは我慢して欲しい。ぬるかったら自分で焚いて貰っても構わない」 「奥様は?」 何気ない質問だったのだろう。悪気は感じない。だから怒りはしないが、それでも今の質問は少しグサっときた。俺は目を泳がせながら、もごもごと濁った口調で。 「……スペイン風邪でね、その……」 「あ、えと……」 (あ……私、なんてこと聞いちゃったんだろう……ごめんなさい……) 事情を知った七岸さんは大慌てで頭を下げてきた。やはりいい子なんだな。 俺はまあまあと手を前に押し込むジェスチャーをしながら軽く笑う。 「ああいいから、スペイン風邪は仕方ないよ。七岸さんの身内にもいるんじゃない?」 「え、ええ。祖父母が、スペイン風邪で……」 「だろう? だから一緒だよ。ほら、先月暗殺されちゃったけど原敬もスペイン風邪にかかったんだし、あれは仕方ない。じゃ、そろそろ仕事をして貰おうか、詳しくは藤高に聞いてくれ」 「はい、誠二様」 (頑張るぞっ) さて、こんなものでいいだろう。 「うーん、自覚がないわけないよな。なんなんだ、あれ?」 俺は彼女に聞こえないようにぼそっと独りごちて、部屋を出ようとすると、 「それはそうと、これはなんですか?」 後ろから七岸さんの質問が飛んできた。 足を止め振り返ると、彼女の手には紺地の洋服、それとエプロンがある。ああそれか。 「制服」 「制服あるんですか。洋服ですね」 「ああ、うちは西洋のものが好きでね、何でも海外じゃメイドさんというらしい」 最近出てきた言葉だから、七岸さんは知らないだろうが。 「西洋かぶれのコンコンチキが。女中は女中じゃないですか」 (コンコンチキって何よ……) 「はっはっは」 なんていうか、七岸さんは面白い子であった。今日は散々だった。授業に身が入らなかった。こんなことではいけないのはわかるのだが、しかし考えることが多すぎてどうしていいかわからない。 放課後、空は曇天が世界を覆っており、肌をえぐるような冷たい北風が肌を刺す。 「さて、確か今日は聖子が修学旅行から帰ってくるんだよな」 市川家が見えたあたりでふと、そんなことを考える俺。 おみやげはなんだろう。楽しみである。 「この寒いのに修学旅行とか大変だな。伊勢神宮あたりにでも行ったんだったかな」 修学旅行って普通初夏に行く物じゃなかったろうか。そんなとりとめもないことを考えながら家の門をくぐると―― 「兄者」 そんな声と共にセーラー服姿の女の子がぱたぱたと駆け寄ってきた。 今流行の『耳隠し』と呼ばれる、ウェーブをかけて耳を隠すショートヘア。小柄な体躯でセーラー服を着ていなければ女学生というより小学生にも見える人形的なかわいさ。市川の血を受け継ぐスッと通った鼻が印象的な女の子――市川聖子が元気よく俺の胸に飛び込んできた。 ちなみに歳は十四。俺より三つ下、七岸さんより二つ下になる。 俺はそんな彼女をぎゅっと抱きしめながら、ちょっとたしなめてやる。 「おう、我が妹よ。ただいま。ところでその『兄者』はやめろといつも言ってるだろ。お兄様と呼びなさいお兄様と」 「わかったよ兄者! おかえり兄者! ああ……今日も兄者はお美しい。あたし、もう見ているだけで感動の涙を流しちゃうよ。素敵すぎるよ兄者!」 全然わかってねえ! でもいいや、褒めてくれると悪い気はしないからな。俺は細かいことはあまり気にしない性格なのだ。 「そうかい? でしょ? だよなあ。もっと褒めて。忍者じゃねえんだからその兄者は止めて欲しいが」 「兄者は麗しいよ。本当に素敵だよ兄者。ね? うりっちもそう思うよね?」 俺から離れた聖子が足下にいるうり坊に視線を移す。 「にぃー」 うりっちは賛同するようにひょこっと前足を上げた。こいつは聖子が飼っているうり坊で、先月イノシシを売りに来た行商人からおまけで貰ったものだ。あ
「本当に不問になった……」 結論を言うなら大遅刻だったのだが、先生からは一切お咎めがなかった。 入地家の権力というものをまざまざと見せつけられる。 俺は机に突っ伏しながら頭をかかえた。 「鈴子さん……ダメだ、強大すぎる! とても太刀打ちできん!」 七岸さんとお付き合いしたい。七岸さんがいい。しかし入地鈴子という女性はあまりに強すぎて、とても勝てる気がしない。 「いや、諦めてはいかん! 嵐は吹いている。逆境だ……。この逆境が俺に力を与えてくれるのだ! ぬおおおおおっ!」 俺は顔を上げ、叫ぶ。きっと何か手はあるはずだ。何か、何か、何か。 「どうすれば鈴子さんとの婚約を諦めさせることが出来るんだ。考えろ、考えるんだ俺」 俺は腕を組み、瞑想。圧倒的頭脳が高速回転する。 「市川」 なんか声が聞こえる。しかしそんなのは無視だ。 「どうすれば……俺の英邁な頭脳よ、今こそ集結せよ!」 「市川」 「うるさい! 今考え事しているんだ! って……あ、先生……」 目を開けるとそこにはシベリアよりも冷たい眼差しを向けた先生がぽんぽんと教科書で自身の肩を叩く姿が見えた。 「ほう、授業中に随分余裕じゃないか」 「す、すみません……」 俺に出来ることは深々と頭を下げることだけであった。 「怒られてしまった……くそっ、鈴子さんのせいだ」 なんでじゃ。
果たして鈴子さんとの問題はどう解決したらいいか。そんなことを考えながらの登校中、住宅街を抜けて大通りにさしかかったところで、ガラガラと車輪が土塊をこする音が聞こえてきた。 牛のひずめののんきな音と混じり、非常に聞き心地がよいのが何か癪である。 俺は何気なく小石を蹴飛ばしながら右を向くと、そこには一台の牛車が我が物顔で大通りのど真ん中を進んでいるのが見えた。 「……牛車、ということは」 この大日本帝国でこんなものに乗るのは一人しかいない。 俺は足を止めて牛車を待つ。待つ。待つ。牛車はとても遅かった。馬車だと日本の軟らかい地面には合わないから乗りにくいのだろうが、それにしても遅すぎる。 いい加減痺れを切らしたところでようやく牛車は俺の前まで辿り着いた。籠からすだれが開かれ、セーラー服姿の鈴子さんがにゅっと顔を出す。満面の笑みである。 「いとごきげんよう!」 「七岸さんだったら頭オカしいですって言いそうだよなあ。牛車通学とか」 「どうしたの? 愛する婚約者への挨拶が聞こえなくてよ?」 何が愛する婚約者だ。そう突っ込もうと思ったが挨拶をしないのはよくない。俺はため息交じりに挙手し、 「おはよう、鈴子さん」 と言った。 「もうそんな他人行儀はダメよ。私たち、婚約したんですもの」 「俺は承諾していない。婚約式も挙げてないだろ」 すると鈴子さんは人差し指を突き出し、チチチ、と舌を打ちながらメトロノームのように左右に振る。 「ノンノン。私が承諾してるの。私が決めたの。誠二さんに逆らう権利なんかないわ。婚約式は後日挙げるわ」 何がノンノンだ。洒落てフランス語など使いやがって。 「おかしな話だな。こういうのは双方の同意で決めるものだろう? 少なくとも家の」 「お父様のご許可はいただいていてよ? というか誠二さん。こーんな小さい頃から一緒なのに、どうして私を見初めてくださらないの?」 「どうしてって……それは……」 俺は目を反らし、口をつぐんでしまう。 理由はある。ちゃんとした理由が。 でもそれを言ったら鈴
「あ? なんだ藤高。今俺は七岸さんと朝の掃除を」 「そろそろご登校のお時間にございます。朝食をお召し上がりください」 「え? もうそんな時間?」 庭だから時計がないのが災いしたか。 さらに藤高はぴしっと気をつけしながらも、やけに攻撃的な視線を突きつけてくる。 「それと、女中と少々親しすぎませんか?」 「それは構わないだろう? 当家は皆仲良くが家訓だ。俺はこの屋敷で働いてくれている全ての使用人を心から尊敬している。勿論藤高、お前を含めて。あまり厳格なのは好きじゃないし楽しくない。家ってのは皆が笑顔でいられるのが一番だ。そうだろう?」 確かに俺は七岸さんが好きだが、別に他の使用人に対してもぞんざいには扱わない。おしゃべりはよくするし、一緒にお茶やコーヒーだって飲む。 だが藤高は釈然としないようで、懐から煙草を取り出すとそれを咥え、マッチで火をつけた。 藤高が俺の前で煙草を吸うのは決まって機嫌が悪い時だ。「若造が、あんまナメじゃねえぞコラ」という威嚇を込めている。ある意味七岸さんよりよっぽど態度が悪い。 「されど誠二様は昨晩ご婚約されたではありませんか。年頃の娘とそう慣れ慣れしく近づかれるのは、入地様に申し訳が立ちません」 「鈴子さんか……くそっ。あの人は……」「市川電機の力では入地家のご意向に刃向かえないのは、ご承知でしょうな」 藤高はそう言ってフーッと紫煙を吐いた。まさしく威嚇である。 彼はチャキチャキの江戸っ子だ。そのため「二本差しが怖くてメザシが食えるか」という精神が今なお残っている。たとえ主人のご子息を相手にしても遠慮をしない。 流石に父の前でこんな態度は取らないが、俺には容赦なく取る。まあ俺が生まれた時からの教育係だからな。孫みたいなものなんだろう。 それに彼の言い分には一理も二理もあり、反論に困るのは事実。 「……知ってる。市川電機風情が日本を影で操る入地に勝てるわけないだろう……」 と、俺と藤高が会話をして七岸さんを放っておいたことに気づく。 「誠二様……」 (わ、私……どうしたら) 遅かった!
現在時刻は六時半。登校まではまだ十分に時間がある。俺は学ランに着替えると七岸さんと共に裏庭へと出る。ドアを開けた途端、ひゅう、と脳の奥まで凍りそうな風が差し込んできた。今日はやけに冷えるな。 「じゃ、朝のお仕事は昨日の夕飯同様サトラレ征伐を兼ねてやろうか」 「昨晩のあれ、またやるんですか? 変態め」 「そりゃ一刻も早く七岸さんのサトラレを治してあげたくてさ。まさか……」 鈴子さんの顔がちらりと浮かぶ。 昨晩のあれは本当に予想外だった。まさかあんなことになるなんて。 これは一刻を争う。早急にサトラレを征伐し、それを手土産に彼女に告白し、お付き合いするのだ。鈴子さんはとてもいい子だからそれでわかってくれるだろう。 逆に言うと、サトラレを無くしていないのに告白しても鈴子さんは諦めてはくれないだろう。こういうのは実績と誠意が重要だ。俺はポキポキと拳を鳴らす。 「誠二様?」 「あ、いや、何でも無い。じゃ、始めよう」 「は、はい。お手柔らかにお願いします……」 「そうはいかない。手心を加えたら無心になれないでしょ」 「そ、そんなぁ」 泣きそうな顔になる七岸さん。なんて可愛いんだ。食べてしまいたい。 だが、今はお預けだ。鈴子さんを納得させるためにも、サトラレを征伐する! 「朝は掃除だよね」 「はい。庭掃きと、ゴミ出しです。昨晩のゴミですね」 裏庭の一角にはゴミ箱が置かれており、そこには大量のゴミがこれでもかと詰められていた。これの始末は新人の仕事とうちでは決まっている。 「ああ、ゴミは掃除夫が荷車引いてやってくるから、それに乗せるんだ」 「そう言えばゴミって結局どうなるんですか?」 「昔は空き地に捨ててたみたいだけど、悪臭が酷いってんで今は露天焼却した後埋め立てるようになったね」 俺は七岸さんに命じてゴミ箱を塀の外に移動させる。俺が手伝ってもいいが、そうすると彼女は手持ち無沙汰となり何か考えてしまうし、何よりこれは彼女の仕事だ。俺はあくまでサトラレが出ないようにフォローするだけに留める。 うちには四人の使用人がおり、家人を合わせると
俺の朝は早い。まだ日の昇らぬ頃には目が覚め、凍てつくような空気にぶるると震わせながらベッドから下りる。 カーテンを開けるとまだ空にはほのかな青すら出ていない漆黒の闇。 さて太陽も見えないこんな時間に起きて何をするかというなら――トレーニングだ。 俺は早速とばかりに寝間着を脱ぎ、上半身裸になって腹筋を開始、次いで腕立て伏せ。さらに鉄アレイを用いてのダンベルトレーニングだ。 体中に汗がほとばしり、真冬の寒さなど吹き飛んでいく。俺は風の子だ。室内だけど。 一体何時間くらいやったろうか。窓を見るととっくに太陽はのぼっていて、つとめての空気が優しく俺を包み込んでいた。 そんな時、コンコンとドアがノックされ、ドアが開かれる音。 「誠二様、おはようございます……って、あら?」 「文・武・両・道! 文・武・両・道!」 「誠二様……何、してるんですか?」 制服――メイド服をまとう七岸さんが呆然と立ち尽くしながら、やけに冷たい視線を俺に向けてきた。 俺は鉄アレイを置きながら手ぬぐいで汗をぬぐう。快感である。 「七岸さん。おはよう! 今日もいい天気だね! 朝の腹筋がはかどるというものさ! んー、この匂い、コーヒーだね!」 七岸さんの手にはトレーが握られ、その上には湯気をまとうコーヒーが何とも温かそうな雰囲気をたたえている。 「え? あ、はい。お茶の方がよろしかったですか?」 「いやいや、俺洋食好きって言ったでしょ? 朝はコーヒーだよ! ミルクホールの娘が淹れたコーヒーか。美味いんだろうなあ」 ミルクホールというとどうしても牛乳がメインになるが、昨今ではコーヒーも提供していると聞く。俺はミルクホールでは牛乳しか飲んだことがないから楽しみだ。 「あまり自信はありませんが……」 (……てかこの人、何時に起きたんだろう、私、五時に起きたのに) 「ああ、同じ時間だよ。朝の鍛錬は日課だからね! ほら見て! 俺のたくましい筋肉! この六つに割れた腹が俺の未来を輝かせる一筋の星となる!」 ぐっとギリシアの彫像みたいに筋肉を見せつける。なんて美しいんだ、俺は
結果を言うなら、俺の圧勝に終わった。 「ふん、他愛もない」 「馬鹿な……」「なんだ、こいつ……」 俺はマントをばさっと翻し、駆ける。こんな雑魚どもの相手などしてられないのだ。 「さて、これはいかん。大遅刻だ。急がねば!」 とはいえこれではどう考えても間に合わない。家につくとしたら四時十五分、いや、下手したら四時半くらいになる。 ちらりと、道の端に自働電話が見えた。自働電話とは道ばたに設置されている電話のことで、お金を入れることで通話が出来るという画期的なサーヴィスである。雨宿りも出来るよう小型のボックスに包まれていて、至れり尽
いくたびも、雪の深さを、尋ねけり。 正岡子規が読んだ句の通り……と言うには雪などこれっぽっちも降っていないし、にこやかな晴天が空を覆い尽くす十二月上旬の東京市。 本郷区向ヶ丘に居を構える第一高等学校の廊下で、俺は先日のテスト結果が張り出された紙を眺めながら盛大に高笑いしていた。 「はーははっははっはは!」 市川誠二の名前が七番目に記されている。つまり七位だ。試験一週間前から睡眠五時間で勉強し続けた甲斐があったと言えよう。周囲の学生たちがぎょっとした目でこちらを見るが、俺は全く気にしない。 「んー、快調快調。よっしゃ、次は五位
その後、部屋や制服への着替えは後回しにし、まずは他の使用人たちに紹介をすることにした。場所は同じ応接室。使用人たちを呼び寄せる形だ。 「えー、みんな、今日から奉公して貰うことになった七岸さん。さ、ご挨拶を」 「七岸さつきです。それにしても成金趣味丸出しのクソ屋敷ですね。相当甘やかされて育ってきたのでしょう。クソですね」 (キャー! どうしてこんなこと言っちゃうのよ! 若様に失礼でしょうが! ああもうこんなこと言ったら嫌われちゃうじゃない! 大事な初日なのに!) 顔を真っ赤にさせ、両手で頬を押さえながら泣き叫ぶ七岸さん。 「「「………
師走特有の北風が夕方の空に吹きすさぶ。 学ランとマントをまとう俺の体に針のごとく突き刺さる圧倒的な寒さ。しかしそんなことを気にせず東京の街並みを全力で突き進んで行った。 家までは走って三十分。まさにギリギリだ。しかし諦めない。俺は人々の隙間を縫いながら疾駆する。 往来は夕飯時が迫っているということもあり、主婦や子供たちが談笑しながら買い物し、それに呼応するように様々な店の主人が大きな声を張り上げ、それが東京に活気をもたらしていた。 うん、つまり彼ら凄い邪魔なんですけどね。まあ仕方あるまい。この困難が俺をより一層燃えがらせ






